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教育の在り方

敢えて「愛国心とは何なのか」について考えてみようと思う。
以前、日本に産まれたんだから日本が一番大事って思うのが普通でしょ、みたいなことを言ったことがあるが、それについて撤回するつもりは無い上で愛国心をストイックに定義するなら、やはり【自国のシステムを愛することが出来、自国のシステムがより良いものになる為にはどうすればいいか考えたりすること】であろう。
この定義の論拠は、「国」というものが人間コミュニティにより作られたものであり自然発生したものではない(木とかと違って)という観点から、である。

以上のことから考えるに、私はこの定義の上では愛国心は全く無い。何故ならシステムなんてものは全て漏れなく崩壊すれば良いと思っているし、システムがより良くなる為の活動なんて一切する気にならないしきっと思考することさえ暇潰しや脳の体操ぐらいにしか考えない。

関係性が遠いということは私に及ぼす影響が少ないのと同義であり、また私が影響を及ぼすことが出来る力も小さいということである。即ち、関係の親密性というのは、己にとっての重要度に大きく関わる訳であり、「国」なんてものは、「ご近所さん」と比べたって存在していないも同然なのである。
影響が少ないというのは実感出来る年齢や知識が無いからだ、という反論に対しては、「では実感してみないと分からないです」という割りと幼稚な回答をすることになるであろう。

では、私がそれでも愛国心があるという発言をした意図は何なのか、であるがそれは単純な話で、【偶々起こったことくらい愛しましょう。それしか知らないし。】である。
つまり、私はシステムは拘束的だから嫌いだが、偶々ある目の前の日本の景色や偶々いる身の周りの人間は好きなのである。


「どうやら野花に付いた泥を払ってやる少年も、雑草を踏みながら歩くことに躊躇いは無いらしい。少年にとって生を感じないものは皆平等であり、私の使命は少年に雑草の存在を認知させること若しくは、雑草と野花の違いを問い掛けることだろう。」
だからみんながんばって俺に認知させろって訳である。


本題に入ろう。
今回は教育について、である。



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はじめに、これは持論である。
固より、主張なんてものは持論以外価値は無いのだが、予めこれを言っておくことで、読者の受容性を高める効用を持つという噂があるので。



「各々が捉える自分の存在意義はそれぞれ、意思を持って【新たな世界を構築すること】という結論に収束する。」

【幸】という概念がある。それを得ると、各々の心が満たされ、俗に「生きることを良しとしている状態」になれる。
私の捉え得るこの世界では、幸に向かわない者は居ない。
それは一見、幸から離れているように思える存在(修行僧など)も含めて、である。
人間的であることを嘆く人間も、人間的な活動を良しとしない人間も、生の条件を満たしている時点で、人間の域を出ることは出来ない、と私は捉えているからである。

それでは、軽く序論を済ませた上で教育について考えてみよう。

教育とは「教えて育てる」ということである。教える(ここでは、=教育とする)という言葉のニュアンスを私は【自分の持っている感覚を、相手方に植え付けること】と捉えている。そうでなければ、関係者同士は常に対等であるが故に、対話に留まるからである。
自分の方が感覚的に優位だと認知(若しくは自分の考えを広めたい、と意識)した上で相手を自分色に少しでも染めようと思った瞬間に、「教える」という行為の最低条件は満たされるのである。
またこの「上下関係」というものは、平等主義者が反駁するような「下卑た概念」では無く、必然的に発生する「形式的な関係性」であるとも補足しておく。

教えるという行為そのものが、【関係性が対等では無い】のだ。
「関係性が対等ではない、なんてことを思って誰かにレクチャーしていない」という言葉には
「そうであれば、それは教育でないだけである。」
と返すことが出来よう。
関係性が対等でない、という意味合いは位置エネルギーみたいなイメージで捉えてもらえると分かりやすいと思う。

物(感覚)が上(教育者)から地面(教えられる側)に落ちてくるのと同じ、という訳である。

因みに、知識の植え付けは教育では無い。
何故なら知識というものは、もう既にこの世界に在るもののコピー&ペーストだからである。
教育という言葉の定義に、知識を蓄えさせること、という意味を含めることに対して強く異論は無いが、少なくともこの話を進める上では、より限定的な方が良いので予めそのことを注記しておく。

どこかから得た知識や、誰かの思考を「あー素晴らしい」なんて言ってそれを与えるだけで「教育者」と名乗るゴミどもは自惚れるなチンカス、という訳である。

常識なんてものは「存在しない」し、誰かから揶揄されるような主張であろうと無かろうと「関係が無い」し、「あなたが考えたこと」を伝えるべきだと思った瞬間に教育は発生するし、それは常識人の話すことや野次を飛ばす人間のそれよりもよっぽど価値が高い。あなたはあなたが正しいと思ったことに対して突き進むべきだし、将来的にそれが間違っていたと思ってもその頃の自分を嘆くべきでは無い。

後悔というのは、その瞬間の選択に十分な思考を経て行っていないか、未来への怠惰から生まれた(必然的な)優先順位の誤認の無自覚性、或いは真摯な心中で臨んだ自分自身の大切な過去の記憶すらも忘却し、蔑ろにしてしまっている【愚かな人間】がする行為だからである。

では、「価値ある教育」とは、何か。
それは、【独自性】である。
擬似世界の創作者のような、発想力の話ではなく、これは世界はどう在るべきか、という問いに答えようとすれば自ずと出てくるものである。
核心的なことは何度も言って聞かせればいい。ただ、核心的な事柄というのはその殆どが「単なる事実」に基づいているだけなので、生きていく上での表面上の有用性を他よりも孕んでいるだけであり、大抵、大した価値が無い。
核心的な事柄よりも、「核心的だと思ったこと」を何度も何度も言い聞かせることが重要なのである。
特にこれは中高での教育に必要なことであり、小学教育ではむしろ毒になりやすいので、避けるべきである(無論、ここでの教育とは学校教育に限ったことではないのだが)。

話が抽象的すぎて捉えにくいような感があるので、何を言いたいかを一度まとめよう。

・世界の在り方とは、同じような人間が発生しないようにすることである
・教育の在り方とは、独自性を尊重した多様性である

これが私の考える「教育」という概念の在り方であるが、私が真に主張したいのは、「教育を受ける側」の「成功例モデル」は如何なるものか、というものである。

話者が自身の色に染める為に行うのが教育である、ということは、この世界の多様性が薄くなるということである。つまり、【話者の願いが達成してしまったら、世界の在り方としては失敗】という結果になる訳である。

即ち、話者の願望は無残に朽ちてゆく、というのがこの世界の理想の形なのである。

何故私がこの世界の在り方についてこうも拘りを持っているかというと、個人としてこの世界を捉えた時の「無数に跋扈する同じ個体」への潜在的畏怖があるからである。

誰かが体験したであろう幸や不幸を延々と繰り返すだけの変わらない世界というのは怖い。
私から言わせれば、俗的に言う【普通の幸せ】なんてものは、酷く宗教的な印象を受ける。
まるで自分の才能や人生を否定し、多数存在するその生き方を前向きに受け入れ、「それでもやっぱり幸せだ」と言って、生きていることに価値を感じさせる為の防衛本能に苛まれているようでならないのだ。

残念なことに、そんなことはない、と反論する対象層の気持ちは分からないし、その層も私の気持ちが分かることは無い、というのがこの世界の常なのだが。

結論を言うと、教育とは「ぶん投げるべきもの」なのである。且つ、数を打てる人間は教育者に向いているということである。

人間は産まれながらにして「核」を持っていて、その核が反応する対象がそれぞれ異なる。そしてそれが個性である。所謂、遺伝論、環境論の話である。
私は当然遺伝論者だが、それを最大限に引き出すのが環境(教育)という訳だ。
そしてそれはどう転ぼうが【反応させた時点で有価値】だということである。

そしてこの世界の理想郷というのは、誰もが新しい「感覚」を求めることである。

以上、普通の人生というものに対して恐怖心を持たない人間へのアンチテーゼでした。




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