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世界破綻論

今日のテーマは
【世界破綻論】

固より、世界に破綻など無い。
ちょっとかっこいいからそう名付けた。

これを思いついたキッカケは
Twitterのさきたま林檎さん(全然知らない)の
「朝から一人居酒屋って楽しいんかな(以下略)」
というツイート。

僕はお酒は飲まないので、この気持ち自体に関してはよく分からないのだが、
よく
「朝から~はキツいよ~」
とか
「夜なんだから~はやめなさいよ~」
なんてことを耳にする。

夜の場合は大抵他人に迷惑をかける行為(とりわけ、騒音系)に当てはまるので、理由としては掘り下げる部分はあまり無い。

しかし朝の場合は、恐らく「気分的」な部分が多い。
ただ、これは人間が「朝」というものに対して社会通念上、世界の始まりのような感覚を抱き、それを社会参加しなくても良い状況であっても引きずっているだけ、という印象を抱く。

簡潔に言うと、休日なのに平日の感覚を引っ張っている、というような感じである。

とまぁ、そんなことはどうでも良い。面白くないので。



ここから派生した発想が【世界破綻論】である。


我々は今しか生きることが出来ない。
過去にあった出来事を学んだり、未来のことを想像せども、肌身に染み渡るその感覚は今その瞬間に委ねる他ないのである。

「便利な時代になったもんだ」
「戦国時代に生まれなくてよかった」
「男に生まれてよかった」

そんなに違和感の無い、よく聞く言葉である。
この言葉を発する理由は
その時代(その性別)よりも現状の方が「幸せである」と思っているからである。

絶対的に、幸せだと思うことより優先する事項はこの世界には存在しないので、そこで思考停止することが賢明である。
幸いにも、僕はあまり現状が好きとは言えないのでもう少し思考してみようかと思う。

まず、前提として
「戦国時代はきっと今より不幸だった」
なんてのは妄想であると考える。

人間は、与えられた環境の中での世界しか築けないからである。これは、現実的な部分での話だけでは無い。
戦国時代の人間の一食よりも、現在の一食の幸福量はきっと減っていると思う。
敵武将の首を自陣に持ち帰る喜びは現代人には味わえない。
というように、基本的に時代背景が違ければ、単純比較自体、困難なのである。
なので、現代人が過去の環境を憂うのは、バイアスがかかりすぎていてそんなにアテにならないのだ。

現実的でない部分でもそうで
「空をタッチしたら仮想世界が現れる機械があればなぁ」
とかいう電脳コイルちっくな幻想は現代人ならではのものであり、
きっと、昔の人にとっては糸電話から固定電話を発想することすら叶わなかったのだ。

しかしそれが今より不幸であるという理由には決してならないのである。
「幸」が精神によって作られ続ける限り、環境というものが与え続ける精神への影響なんてものは類推するしか無いからである。

人間は、お金持ちがいるからお金持ちになりたくなるし、運動神経の良い人間がいるから運動神経の良い人間に生まれたかったと思うのだ。
スマートフォンなんて概念を想像することも出来ない「無知」の強みは、それに対して劣等感を抱かない点であり、それは即ち、その時代の人間の幸福度はそれらの要素には【一切影響されない】ということである。

つまり、「現代に生まれてよかった~」
という台詞は、過去を観測している現代人の一方通行な感覚である、ということである。


ここまでしっかり読んでくれた人は
「確かに、時代によって幸福度なんて比較のしようが無いのかも」
なんて感じに洗脳出来ている気がするので本題。


【今現在が世界が破綻に向かっている最中だとしたら、なんか、嫌じゃない?】

人間は、世界を調整しようとはしない。
それぞれの人間が思うままに行動した結果、調整される場所が、今在るだけだからである。
即ちベクトル論。
世界は語りかけない。聳え立っているだけだからである。
その世界に存在するもの全ては自然物であり、人間、またはそれが生み出すものの全てすらも自然物から脱却出来ない。
即ち広義的な意味での自然論。

世界は、これらの【自然ベクトル論】から構築される。また、一切の事象はここからはみ出せない。

ここから導かれる結論は
「全ての理想は、個人の絶対的自信によって発生し得る」
ということである。

個人という感覚を一度切り離して、誰もが認めざるを得ない、誰も介入しようがない、誰も否定のしようが無い世界とは何だろう。

それは【最初】である。
世界の始まりの環境は誰も否定のしようが無い。
何故なら誰の手も加わっていないからである。

なので、最初に戻ろう。
みんなも最初を目指そう。

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