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自己紹介②

僕はあまり話さない気分のことが多い。

何かリアクションを求められた時、特に何も思わないことが大半であるから、特に何も思っていないということが伝わる言葉を表出させるのが誠実であると思っているのだ。

僕が昔からずっと思っていることは、日常生活においてみんなみたいに言いたいことなんて、何も無いのだ。
やりたいことや実現したいこと、憎いものや壊したいものなんてものは、飽きや怠惰に比べれば取るに足らないものであり、【行動を伴う前提で吐く言葉が有限不実行になる】ことが最初から分かっていて言葉にするほど、リアリティーのない人間ではないのだ。

だから僕は、行動が伴わなければ説得力が生まれない性質の主張を、行動を伴わない形で説得力を最大限に持たせる技術を養うことにしか興味が無いし、この世界に跋扈している僕にとってのリアリティーの無い、行動を前提とした活き活きとした話なんてものは、正直自分とは関係のない話だなぁと常日頃から思っているのだ。

僕にとっての言葉は作品である。
言葉は一切実現しない。
一つ一つ紡がれるそれは常にファンタジーであり、それを実現しようと、24時間の中で1分程度思うその瞬間がリアリティーであり、やっぱ良いや、と思う23時間59分こそがリアリティーなのだ。

若しくは、どんな形であれ僕に還元される言葉はリアリティーから逃れることは出来ないとも言える。
少なくとも、"現実的"と淡白に捉えるよりもその方がよっぽど、本質的だ。

そんな中で日々を過ごしていると、僕が無反応な無数の事柄の中で、僕の中の何かが反応する瞬間がある。
先日、友人が
「この消しゴムのカバーを取り外した瞬間に、全て分かるようにしようと思ったことがある。」
と話した。
テストのことである。
「問題用紙を見て、それを解くのと、消しゴムのカバーを外して全て分かるようにすることは、本質的には同じなんだよね」
と言った。

そのインスピレーションを感じる瞬間、雑念がふと消える。
生きるのに邪魔な、或いは必要なものが全て消えて、光線が脳をスーッと通過するかのようにその一点の反応に集中出来る瞬間があるのだ。

その後に、生きてて良かったとかって思うのはもう既に論理的になっている状態で、思考の介在しない、感覚が反応して脊髄反射のようにそれに応じて疾る"衝撃"よりもそれはよっぽど計算高くて、面白味がないのである。

初期衝動を大切にしなければいけない理由は、その瞬間の自分の感覚には一生変身出来ないからなのである。

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