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芸術とは

北川景子が主演の『家売るオンナの逆襲』
というドラマの特集を見ていて思ったことがあるので、記事を書くこととする。

もし、万に一つでも専業主婦の人がこの記事を見るようなことがあればブラウザバックした方がいいと思う。
たかがドラマの記事如きで機嫌を損ねる人生は切ないからね。

そして、この記事の本題は文章の中盤辺りからになることを先に言っておく。


まずこのドラマは2016年に連続ドラマをやって、2017年にスペシャルをやって、って感じだったらしい(正直どうでもいい)。
このドラマの特集を見て直感的に思ったのは
【ああ、人気出る】である。

そもそもドラマなんてものは個人的に、現在地の窒素量くらい興味が無いものなので、そんな僕にドラマの特集の一部始終を視聴させた製作者はその時点でセンスがあると言える。
因みに、原作はドラマである。

内容としては北川景子演じる不動産屋の女営業マン三軒家万智がカッコよく仕事こなしてくみたいな感じである。

人気が出ると思った理由は単純に、自分が視聴率の取れるドラマを作ろうと思った時に、全く同じような構想を練るだろうなぁと思ったからである。
加えて、特集を見る限りそれぞれの案件で出てくる登場人物の個性やSNSなどの時代背景が【今風】でコミカルに描かれているのも良い。

この効用は
「あの作品って実は名作だったよなぁ」
なんて台詞がネット上で散見されるような【受け口の狭いもの】はわざと避けて、菓子でも食べながら見よう、といった取っつきやすい軽さを入れることで、視聴時のハードルを下げているところだと思う。

キャスティングに関しても、ベストとまでは言わないが北川景子をチョイスするのは90点くらいだと思うし、多分僕の知ってる限りこの役に抜擢されるような他の女優は居ない気がする(個人的には、風評被害同然の理由で奥様方からの評価がガタ落ちする前の真矢みきとか面白い気もする。)。
千葉雄大くんも出ているのだが、まーーーーーー千葉雄大くんのこと嫌いな奥様なんてこの世界に殆ど居ないだろう。

何より、この作品の人気が出ると思った一番の理由は
【着眼点】である。
何も難しいことはなくて、女性に関わらず人っていうのは自分が日々出来ないことに憧れる。
憧れっていうのは、それを感受した瞬間に勇気付けられたり、満たされたりするもので、会社内の権力者にバシバシ歯向かっては打ち勝っていく『半沢直樹』然り、恋人が病気だーっていう『恋空』然り。

『半沢直樹』に関しては原作が小説ということもあり、しっかりした骨組みで作られていたし、非の打ち所がないくらいに思っているが、こういう話が好きな視聴者層は【上司に逆らいたいけど逆らえない糞リーマン】だし、
『恋空』に関しては原作が携帯小説ということもあり余裕のクソ構成(見てないけど)であるが、その視聴者層は、恋人が病気だったらこんなにも切ない・・・という感情を味わいたい【折角かごめの矢に浄化されたのに奈落の瘴気に当てられたくなる女】という訳である。

『家売るオンナの逆襲』の特集を見た時、まざまざと思ったのだ。そんなことを。
本当は仕事をバシバシしたいという気持ちがあるのに、専業主婦になった人の、内に秘めた闘志みたいなものを掻き立てるようなそんな要素。
「いけー!やっつけちゃえ!」
と言った感じで北川景子を応援してる奥様方の顔が浮かんだのだ。






という類の考察が正直一番サムい。
そんなことどうでもいいし、誰でも書けるし、誰でも思うし、誰も興味ない。これに興味を持つ人は全員センス無い。

◯◯だから人気が出そう。△△だから上手くいきそう。

そんなことを話してるお前は何者でもないただのカスで、実行力も無ければ生産性も無ければ発想力も無い生きてる価値の見出せない奴であることを自覚しながら日々を生活し、人権を享受しろ。




なので本題。
今回のテーマはこれ。


✳︎作品は時代によって変わるべきじゃない✳︎


このブログを読んだり、Twitterで僕という人間がどんな人間かということがある程度分かっている人ならしっくり来ると思うんだけど【主張】っていうのは【実現しないから理想のままでいられる】って話は何度もした。

作品というものは、それが実現した状態と捉える。

勿論、作品をそう捉えないという発想はある。逆に主張そのものも作品と捉える発想も無くはないだろう。

この線引きは【本人次第】である。

本人が作品だと思って世に送り出したものが単なる主張として評価されてしまうこともあれば、単なる主張だと思ってぶん投げたものが然も作品を評価されるかのような反響を呈することもある。

創作者の本意など掴めると思う方が驕りで、何人足りとも人の心は分からない。これは創作者がyesと言うかnoと言うかでは無い。創作者がyesと思ったかnoと思ったかが本質なのである。何事も、である。

人は良く「論理」に拘る。言葉は感覚という中核に論理を宿らせている。
文章を読む時に、表現に拘らないのは悪だ。
心を、1から10までの数字を使った四則演算だと勘違いしてはいけない。
言葉が感覚を正確に伝えるのに完璧な代物であるというのなら、この世界には芸術作品など要らない。
我々は論理が見たいのではなく、感覚が見たいのだ。

話を戻そう。
要約すると、作った人が作品だと思えばそれは作品であるし、主張だと思えばそれは主張である、ということだ。

そしてそれが人気が出るかどうか(今回に関しては作品投下の時代背景)というものに固執した時、それは決して芸術作品として昇華しない。精々【環境や時代によって生まれた主張】止まりである。

これは、芸術作品というものに対しての在り方への不信感でもあるが、真に言いたいことは時代や環境に対する主張そのものに対する感性の疑問である。

戦時中、戦争の映画に需要はあるだろうか。僕は無いと思う。戦後平和になってから、人は映像を以て噛み締める。
【今が平和で良かった】。
そもそも、芸術作品というものはこういった感情を持たせる為に存在している訳ではないし、こういった感情をコンセプトに作られるものは【芸術作品ではない】。

芸術作品は、そんな論理的ではないのだ。
そんな考えは、精々言葉に出来る。
有り触れた和と差で求められる。
夏に冬が恋しくなる感情が芸術であってはならないのだ。
冬には夏が恋しくなるからである。

夏に語る冬への愛と、冬に語る冬への愛が異なった時、芸術性の一切は削がれる。
そのことを自覚していないから、のうのうと似非芸術がこの世界に蔓延るし、【リアリティー】の無い主張が散見されるのだ。

シンプルに言いたい。
芸術作品とは、真理に手を伸ばそうと希求した時に初めて生まれる可能性があるものであり、何故それが芸術作品であるかというと、科学で解明されていない【真実】に達している【可能性】が残されているからだ。

つまり、この世界の全てが科学で解明された世界には芸術作品は存在しない。


「感受可能な情緒は作品に必要無い。
ただ足跡を辿るだけの旅路は人生の中の崇高なる余暇というものを持て余すのには余りに勿体ないからだ。
その味を良しと思うならば、そこから溢れ出んばかりの感覚を抽出するべきだ。
その活動を怠る者が創り続ける世界では無に意味は切り拓かれない。
地球が廻るからと言って、人間が時間を廻す必要は無いのだ。」
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