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死刑判決(みんな用)

私は、民主主義が好きではない。
独裁が一人の暴力だと擬えられるのであれば、民主主義は複数人の暴力に他ならないと考えるからである。

公平性や平等性を人間社会に組み込むに当たり、適していないシステムを是としてはいけない。
又、そのシステムに賛同する者は皆、多数派だから正しいという傲慢性を自覚すべきである。
主張は言葉で行わなければ意味が無く、そこに論理性が伴わないのであれば暴力と何も変わらないからである。

社会が感情で動くのであれば正しく運ゲーで、その運ゲーに勝った人間は本来「運ゲーにも勝てなかった奴は黙れ」程度の言論しか持ち合わせなくて良い。暴力的である自覚を持ってさえいれば、未だ救いがあるというものだ。


さて、本題であるが
テレビで「裁判員制度」のニュースをやっていて個人的に割りと興味のある話だったので記事にしてみる。

まずテレビの内容はこう。
・裁判員裁判で死刑判決が出る
・二審で無期懲役
・上告棄却

因みに、裁判員裁判の判決方法は
・多数決
・裁判官一人以上が多数派に入っていなければ、多数決で決定した判決は下されない
というものである。

殺された被害者が一人であったということ以外、どんな事件かは敢えて書かないけれど、これに対しての大抵の国民の意見は
「じゃあ裁判員制度って意味ないじゃん。」
ってことになる。

VTRの元裁判官は皆
「死刑判決は被告人に対しての公平性の観点から慎重に行うべきである」
と口を揃える。
この公平性と言うのは、嘗ての死刑判決基準で罰せられた死刑囚に比べ、現被告人に対しての量刑判断に公平性が伴わないことを懸念したものである。

また、一審(裁判員裁判)で死刑判決を下した裁判官は
「殺した人間は一人(永山基準では4人)であるが、他の罪(放火等多数)のことも考えると、公平性の観点からも妥当な判断であると考える」
と述べている。

二審の無期懲役は永山基準に照らし合わせたもの。
上告棄却の理由も同上である。

するとやはり国民はこう言うのであろう。
「結局、裁判員の意見が適用されないなら裁判員制度って要らないじゃん。」
「被害者が一人だからと言って死刑にならないのはおかしい。」
と。

前者についてはあまり興味が無い。
それは、適用されないなら裁判員制度って要らないじゃん、という意見だけで充分だと思っているから。

私が今日話したいのは後者の方である。
【被害者が一人だからと言って死刑にならないのはおかしい】。

何度も言うが、こう思う人間は私含め多数であると思う。
だからと言って「おかしい」という言葉を落とし込んでしまっては暴力になり兼ねないのである。

せめて、
「命は同様の価値を持っているのだから、一人殺したらその人が死ぬのは当然」程度には言葉に責任を持つべきであり、
「植物状態の病人や、寿命間近のお年寄りや、将来性のある子ども」
の一切を区別してはいけないし、そういった倫理的な意見にも答え続けなければならない。

因みに、倫理観で社会は成立しない。
何故なら、倫理とはよく分からないものだからである。
言語化されないものはよく分からないのだ。

私が社会を作る必要も、法律を作る必要も無いと思う最大の理由はこれで、よく分からないものが大切だと思っているのにどうしてそれを言語化しようとするのだろう。ということなのである。

よく分からないものはよく分からないままにしておけばずっと公平なのだ。誰も不憫な思いをしないで済むのだ。

しかし、現実世界では残念ながら社会も法律も存在しているので、今日は【人を一人殺した人間が死刑にならない】ことに不信感を抱く全国民の為に有用な論理性アプローチを考えてみることにする。

まず、ここでの有用な論理性アプローチというのは「社会が動かざるを得ない状態になる言論」であるとする。
簡単に言うと【筋が通っていること】である。

人を一人殺した人間が死刑にならないのはおかしいだろ!
と私が言われ続けても、永山基準で今まで判決を行ってきたので公平性云々…
と返しておけばどうにかなりそうなので、放置しておきそうである。

通用し得る論理性アプローチは
「人の命の重みの絶対性」である。

大日本帝国憲法が1890年に施行された。
歴史なんて知らないが、恐らくこの時代は軍国主義で、日本は米国に戦争で勝つ為に訓練をしていた。
戦争に負けるはずが無いと思っていた日本国民、とりわけ戦場に駆り出されていた兵隊達の多くは落胆し、敗戦を受け入れられずにいたと言う。

日本国憲法が1947年に施行された。
敗戦国となった日本は、国民主権と平和と基本的人権を大切にしようという旨の現行憲法を作成した。

この二つの時代の命の重みは果たして平等だったのであろうか。
又、それよりも昔の戦乱の世でも命の重みは平等だったのであろうか。

命の重みは時代の変遷によって移り変わるものなのだ。
それは、世界情勢の変化や、国内情況の変化などによって左右される。
又、平均寿命の変化、幸福指数の高低などによっても変わってくるものなのである。

時代一つ一つを切り取って見た時に「命の公平性」があることが重要な訳であり、まるで絶対不変の真理かのように命の重みを語るのは、健全な社会システムを構築するに於いてはいけないことなのである。

そこで行う論理性アプローチは、永山則夫連続射殺事件(永山基準となった1968年の事件)当時と比べて現在の日本の国内の状況は変化があるかどうか、ということである。
私には全く分からないのだが、殺人事件の件数推移を調べてみた。


グラフの他殺による死亡者数の部分を見て欲しいのだが、1968年当時と比べ、年間約1500人から多く見積もっても300人程度に減少していることが分かる。

この参照元の情報を鵜呑みにするのであれば、約5分の1に他殺による死亡者数は減っていることになる。

これは【殺人事件が起こりにくい世の中になった】ということである。
永山則夫連続射殺事件が起こった当時と比べて、本当に現在の我々の命に対しての価値観は同じものであって然るべきなのであろうか?

時代の変遷に沿って公平性が保たれるのであれば、殺人事件による死亡者数が減ったことに対して過去のルールを適用し続けるのは【社会的には正しくない】。

それは極論をすると、大日本帝国憲法を今でも適用しているようなものだから。



というアプローチをしそう。



終わり。
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