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作中の中に僕はいない。

私は受験科の小学生相手に国語の授業を行っている。
最近の小学生が良く口にすることは、
「先生死にたいって思ったことある?」
「死んだらどうなるの?」
ということである。



誰しも一度は、生と死について考えたことはあるかと思う。少なくともそうでない程までに暇を持て余していない人間は居ない、と捉えている。

小学生の例を挙げたので、まず人間が生と死について考え始めるキッカケについて考察していきたいと思う。

これは明確に「死」というものを認知した時であると思う。これは実体験的な認知ではなく、概念的な認知であることが多いと思う。
人間というものは往々にして、相対するものが無ければそれを認知しようとしない。

我々人間が目の当たりにする光景はきっと常に、常であった。
床、カーテン、棚、食器。
我々はこれらについて考察を広げない。
むしろ、空気中に存在するものが窒素であると、酸素であると、そういったことを知った時の方が考察を広げるのである。
ただ在るものはただ在るものとして既に体を成しているからである。

生は本来、そういったものである。
生はただ在るものなのだ。少なくとも我々にとっては。
では、我々が死を意識するタイミングはいつか、と言うとそれは
【生がただ在るものたり得ない状況】になった時である。

生には苦しみが付き物である。
人間は「幸」でないものに対して脆い。
生からの脱却があるのであれば、と思考した正しくそれが死のイメージである。

我々は死について考える。
生について考えるよりも死について考えることが多い(ここでの生は、概念的な生というものについて、という意味)のは、生は食器で、死は空気だからである。

多分、概念的な生の認知が、概念的な死の認知に先立って行われることは無い。
生に意味を持たせなければならない状況というのは、死をイメージしなければ辿り着けないものだと捉えているからである。
息を止めなければ苦しいと気づかない。走らなければ苦しいと気づかないのと同じように。


人間から見た生というものの概念理解に入っていこうと思う。
当然だが、生に意味なんてものは無い。
生に意味を持たせるにはこの世界に意味を持たせなければならず、意味というものが人間的な価値観で捉えられる言葉であるならば、それは傲慢極まりないし、「筋」は通せども「筋が通らなければ成立しないかのような前提」の下で行われる話であるから、いずれにせよ人間中心的な考えである。

簡潔に言うならば「夢を語る」みたいなものである。
野球選手になりたい、と目を輝かして言う少年は和ましいが、そこに言及の余地は特に残されていない。

では、生というものは一体何なのか。
生というのは死の対になるものであり、生というのは「線」である。

まず、概念理解というものがどういうものかということについて説明していきたいと思う。

例えば、概念というものは具体化出来ないものであり
理解というものは言葉で紐解いたものである。
具体化出来ないものを言葉で紐解けた時、それが概念理解である。

例えば、
「走ったら疲れる」
ということは概念理解では無い。
走ったら供給される酸素量が不足して(知らんけど)疲れるとかそういうものが概念理解である。
少なくとも人間がし得る最低限の、という補足をした上で無理矢理区切りを付けているだけなのだが。

生で喩えるならば、【我々が此処に存在していることは概念理解では無い】のである。
更に「疲れる理由」に対して「生きている理由」というのも使えない。それは先程示している通り、生に意味は付随出来ないからである。

そういった方法論を遮断した上で、生の概念理解を行おうとする時、私はこう考える。
先述したように
生とは「線」である、と。
この線とは【記憶】のことである。

私たちは産声を上げたその瞬間に、生を認識していない。
これは、きっとそうである、という推論である。
しかし、生を積み重ねていく内に死というものを知る。
それは死というものがある、という認知からかもしれないし、痛覚によってのものかもしれないし、生に草臥れた末の気づきかもしれない。

私たちは記憶を頼りにして、生死をイメージするのである。
生を点とした(記憶が無い状態と捉えていい)時、私たちは恐らく生死をイメージしない。

私は重度の離人症というものになった時、その時の状態をこう擬えた。
「これは臨死状態である」
と。

記憶というものがしっくり来なくなったのだ。
我々は過去を語る時、その時の感情を思い出すかのように、辿る。
記憶というものがしっくり来ないという感覚は、その時の感情がよく分からない、という表現が正しいだろうか。

彩りのあった線が全て淡い灰色になるようなイメージ。
辿ってきた事実だけがインプットされていて、色合いが全く無くなる。
これ以上の表現は言葉だと正直難しい。

その時、こう直感したのだ。これは正しく臨死体験である、と。
多分、死ぬというのはこういう状態なのだろう、と。

まるで小説を読んでいるような感覚。
小説を読むとき、自分はどこにもいない。そのような感覚。
しかもそれは感情移入出来ない主人公を辿るような、そんなイメージ。

ただ、器としての肉体が在るだけで、そこには何も入らない状態。
多分死ぬってこんな感覚なんだろうな、と実感した。

そこに知覚はあるようで、実はないのだ。
死んでいることも、生きていることも、知っている、という事実があるだけで、極限にまで凝縮された器の中には何も還元されない。
きっと、そんな感覚が、死んでいる状態に最も近しいのだろう、と直感したのである。

何が言いたいかというと、生死を想起させるのは【記憶】であるということ。

ここまで書いといてなんだけど、あんま面白くなんなかった。ダメだ。
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