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地獄でなぜ悪い

『地獄でなぜ悪い』
園子温
☆5

傑作…であろうことは前から感じていたが傑作。
著者が生粋の園子温ファンであることも理由の一つかもしれない。

この映画は『愛のむきだし』の置換方法を変えたもの、と言って良い。

愛のむきだしが、「湧き出るエネルギーの爆発」だとすれば、これは「湧き出るエネルギーの言語化」である。

こう評する理由は、愛のむきだしよりも型がしっかりしていたことである。
愛のむきだしのイメージは「同質エネルギーを同作品内に沢山ぶち込んだもの」だが本作は「一つのエネルギーをぶち込み、それを言語化したもの」という解釈だという訳だ。
エネルギーが一つだから、操りやすい、という感じ。

無論、「言語化」という表現は日本語化とかそんな野暮なことではなく「明瞭化」のことである。
即ち、認識可能な状態にすること、という意味だ。

愛のむきだしは、「不明瞭だが確かに在るもの、をそのエネルギーのまま、映画という画角を使って(置換)惜しみなく爆発させたもの」だが、
本作は、「明瞭に在るし認識もされるが、重要視されないものに対するエネルギーを、映画という画角を使って御したもの」
という認識をしている。

察するに、園子温という人間は、こういった作品を撮るにあたって、型を取って完成させた時、達成感と共に心の引っかかりを覚えるタイプなんじゃないだろうかと推察する。
当人にとって、愛のむきだしほどの衝動は得られなかったはずだ(完全に私の憶測。おこがましい。)。
それは、自分のエネルギーと発現したものの齟齬に依るものだ。

珍しい話ではない。
型を取れば型を取るほど、型を崩さない部分が出てくる。
型を作るというのは、言葉のルールに則った時に論理的でなければならないように、作った型に押し込められなければならない部分が出てくるのだ。

捻った蛇口の水が飛び散るのを聴者が嫌いがちなことに合わせて、捻った蛇口を調整しなければならない。
ただの発露や叫びで終わらないように、そして伝わるように、けれど叫びが叫びであるように。
その葛藤は終わらないのだ。


因みに『自殺サークル』や『紀子の食卓』はこのテイストでは無い。
狂気的、と一言で片付けるとこの辺の違いをもしかしたら正しく認識出来ないのかもしれない。

自殺サークルは思考作品だし、紀子の食卓は自殺サークルの思考の具象化だ。

本作や愛のむきだしが
「人間のエネルギー」
が基となっている作品だとすれば
自殺サークルや紀子の食卓は
「人間」
の話である。
全く別物である。


ではそろそろ本作の感想を述べよう。


まず、この人の作品ほどニヤニヤしながら観れるものも中々無いだろう、ということ。
しかもニヤニヤしながら観ているこちらも、何だかそれがよく分からない感覚になる。
ひたすらパワーに気圧される。

人が死ぬ場面では当然の如く愉快な音楽が流れるし、ラストシーンでは当然役者が道路を走ってる。
どこを切り取っても園子温が作った作品だと分かるような安心の出来映えである。

二点目はやはりキャスト。
園子温と言えばキャスティングである。
ファンであればエンドロールで監督当て、なんてゲームがあれば園子温の作品を見誤ることはないだろう。

二階堂ふみは言わずもがな。
今回光ったのは、長谷川博己であろう。

私がこの役者を知ったのは『家政婦のミタ』であるが、この人はめちゃくちゃ良い。
上手く説明できないが、めちゃくちゃ良いのだ。
後は星野源や友近などが出ていた。
歌が星野源だということは知っていたが出演していたとはいざ知らず。

書きたいことは多分山ほどあるが、いざ書こうと思うと別に書かなくても良い気になってくる。
書こうと思えばいくらでも書けるが、書く必要が多分無いからであろう。

ということでこの辺で。


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