全国のコンビニ各店に告ぐ!コールスローを切らすな!!!ターボライターを置け!!!お前らがいくら笑顔で接客してもコールスローの代わりにキャベツの千切り買う人間は目に涙を浮かべているんじゃ!!普通のライターは手ちっちゃい奴は風防ぎ切れなくて手に火がびゅーんってなって手燃やしてるみたいになるんじゃ!熱いんじゃ殺すぞ!!!
どうも(かわいい)麻雀くんです。
今日神様(僕の次に偉い人)から書けと言われたお題はこちらです。
【精神は肉体に勝てない】
この間、飲み会とやらをした。
麻雀くんはお酒をほとんど飲まないのだが、まぁたまには行くかぁってことで参加したのである。
すると彼らはお酒を飲むと本音トークみたいなことを始めるのである。
日頃から溜め込んでいたものを吐き出すかのような光景を見て麻雀くんはこんなことを思うのである。
[否定的麻雀くん]
(酒飲まなくても言いたいこと言えば良いのに。何やねんこいつらキモぽよ)
[肯定的麻雀くん]
(みんな常日頃から思うことがあるんだな。感情が豊かなのは良いことだ)
[悲観的麻雀くん]
(酒飲んでもそもそも吐き出すことが無いからこいつらの気持ちが分からん…存在が遠い…羨ましい…)
[楽観的麻雀くん]
(まぁでも俺みたいな奴もケッコーいるだろ。人生はエンタメエンタメ)
僕はつまらない人間だなぁと思う。つまらないことは罪なのだが、今日はそのことに関しては置いておく。
しかし、こういったことを考えるのは全て精神くんなのだ。
全ての事象が個人というレベルでは精神によって昇華され、精神に還元されるのだ。
人間という生き物は精神によって成立している訳である。
しかしそこで留まっていては、麻雀くんという人間は救われなかったりするのである。
この「精神至上思考」の成れの果ては[全部同じだから全部どうでもいい]である。これは人間として虚無や諦観というものが根付いてしまっているのが原因なのだが、
[全部楽しいから全部良い]といったチートキャラもたまにいる。
全部どうでもいい、とはなんて悲しいことだろう。
あれだけ感情的で情熱的だった小学生の頃の麻雀くんはどこへ・・・?である。
そこで、である。
麻雀くんは一つの説を立てるのである。
【精神が精神レベルで対処出来ない事象こそ価値があるのでは?】
例えばマラソンである。
麻雀くんは走ることが好きで昔よく走っていた。
忙しい世の中ですねぇなんて感想をこのご時世、よく目にするが街中で走っている人は中々見かけない。
鈍足も鈍足、彼らが急いでいるのは気持ちだけで、行動が伴っていなかったりするのである。
走ることはいい。
そう、、走ることはいい、ということが言いたいのである。
ランナーズハイという言葉がある。
走り過ぎてよくわかんねーけどきもちー
なんて状態である。
麻雀くんの感覚でランナーズハイを言葉にすると
「死んでいる爽快感」
である。
人は本当に走り疲れた時、死にながら走る状態になる。
確かな感覚を持って直前までしていた行動を、今度は【自制しているのかしていないのかも分からない】状態で行うのである。
これは、貴重な状態である。この状態ほど、人類が純朴な瞬間は無い。淀みが無い。美しい。
この瞬間、精神は精神を制御するという【発想に至れない】。
肉体が強制的に思考を停止させ、何かも分からないものに向かって走って行くのである。
これはまさに人間としては死んでいる状態である。
正の方向にベクトルが伸びきった形の死んでいる状態である。
スポーツなども同じで、人は本気で熱心にその物事に取り組んでいる時、他のことを忘れる。
否、忘れなければならないのだ。
ここで忘れられない人間は、人間としてとても悲しいことなのである。
ここからが持論だが
人は生きるに於いて、この忘れる時間を多くした方が多分豊かだ。
他の全てのことを忘れている瞬間だけは肉体が精神より優位に立っている状態で、その状態は何故か心地がいいのだ。この心地の良さには偽りが一切ない。何故ならその瞬間に心地いいと感じることはあっても思考する余裕は無いからである。後になって気持ち良かったなぁなんて精神くんがひょっこり現れるがそんな奴が入る隙はその瞬間には無いのだ。
何か考えている時間は結構ムダだ。そう感じた人間は様々な方法で思考したものを表出させようとするが、感覚という丸はどう頑張っても丸として表すことは出来ないのだ。
うーん、もどかしいのだ。どうしようもないほどに、なのだ。
雑魚い。人間、雑魚すぎなのだ。誰かにとっての麻雀くんが麻雀くんにとっての麻雀くんと一致することは一生叶わないのだ。雑魚すぎなのだ。
終
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