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話をカテゴライズした。

話の種類の定義。

次に述べる4つの定義は「話者」と「話」は切り離せないものという前提の下でカテゴライズしたものである。
それは、「死ね」という言葉が、関係性や話者、状況によって意味や強さが異なってくることからも分かるように、言葉だけで分けるのはあまりに軽薄な定義の仕方だからであると考えたからである。

なので、次の4つの説明で引っ掛かるところがあってもあまり気にしないで欲しい。
後述するが話者が③だと思って話していればそれは③であるし、②だと思って話していれば②だからである。

その主観性を相対的に言語化するために無理矢理定義したものなので、恐らく分かりにくい。

以下の4つが"話の種類"である。この世界の"話"は全てこの4つのどれかに属する。

①現実
そのままの意味。また、常識や一般論など人々が認識しやすいもの。
【例】「机があるね」「マナーを守ってください」
②真現実
"まげんじつ"と読む。真現実とは、人々が認識しやすいか認識しにくいかに拘わらず、人々が認識する上で紛れもない現実となるもの。
現実の対概念ではなく、人々の錯覚、誤認を出来るだけ排除していく効用のある概念。
抽象的に説明すると、世界という丸に線を引いて切り分けた結果"半円"に見える世界を円に戻していく為の概念(仮に世界に人間が言葉という線を引いていなければ、①と②は同義である)。
論理的展開はこれに属する。
論理における"前提部分(共感という部分でしか採用されない最小単位)"を共有又は決定していく作業もこれに属する。
科学を科学、又は科学以外の側面から否定していく作業もこれに属する。
簡潔に説明するとすれば、「本当はこうなんじゃね?」というのを納得性のある"言葉"を使って【話そうとする】時、ここに属する。
【例】「車が来ていなければ赤信号でも渡って良いのでは?」
③空想
存在しないものの想像、またはその考察、など。何でもアリ。
実存主義者はこれを嫌い、理想主義者はこれを好む傾向にある。現段階では"死んだ後どうなるのか"等もここにカテゴライズされる。
【例】「空を飛べたらなぁ」
④夢
寝る時に見る夢。擬似的な実体験として他とは異なる次元観。明晰夢を見れる人間はこの限りではないかもしれない。
【例】「今日見た夢なんだけど、動いてるジェットコースターでサーカスしててさ」



以上を用いて次の❶,❷,❸について考えていきたいと思う。


❶コミュニケーション能力について

人間は、コミュニケーションにおいて、話者の話がこれらのどの観点から話されているかを見極める能力が要される。
同じ視点(①→①、②→②)で返すのが基本のコミュニケーションであり、応用コミュニケーションも発展が期待される場合(①→②等)があるが、その場合別次元の返事をする側は、元の次元観(話者が選んだ次元)を忘れがちにならないことに注力すべきである。

[1]
A「ハロウィンの仮装どうするか迷う」
B「なんでハロウィンが楽しみなん?別にハロウィンって名前が付いてるだけで1年のうちの1日であることには変わらないのに。」

[2]
A「マナーって要らなくね?それが生まれた時はそれを守らなきゃいけない理由があったんだろうけど、今はそんなことないマナーってたくさんあると思うんだよね。」
B「いや、より多くの人を過ごしやすくするためのものがマナーなんだから要るだろ。」

Aはそれぞれ①と②の視点で話しているが、Bはそれぞれ②と①で対応している。
Bのコミュニケーションは、意思表示としての価値はあるが、コミュニケーションとしての価値は薄れていると言える。

[1]のAはハロウィンが楽しい理由を考えることを望んでいない。Aはハロウィンをより楽しむための思考を欲しているのだ。
[2]のAはマナーの意義を求めている。マナーが生んだ思考の提示は求めていないのだ。

こんな風に噛み合っていない話が発生するのは地獄である。話が噛み合わない理由の多くはこうした"次元の違い"によるものである。

❷科学について。
③は空想という次元であり、"死んだ後どうなるのか"がここにカテゴライズされることを述べた。
科学によって、死後の世界が解明された時、この言論は③に属したままになるのであろうか。
答えは否、その限りではない。である。
この次元のカテゴライズは飽くまで【話者に寄り添ったもの】である。
例えば
「死後の世界は◯◯だと科学で解明されたけど、俺は死んだら□□してるだろうなぁ」
これは基本的に①である。
「科学で解明されたらしいけど、俺は信じていない。本当は死後の世界は◯◯だと思う」
これは基本的に③である。
話者がここで扱われている科学というものを信念的に認めていないので基本的に③になる。
ただし、別の科学的アプローチや論理的アプローチでここでの科学そのものに反論をするのであれば②の要素も孕んでくる。

ここからも分かるように科学の効用は、③の範囲を狭めることにある。
死後の世界が解明されていない段階で
「死後の世界では◯◯したいなぁ」
と話す人間が居たとしても、それは基本的に③である。
即ちこれら4つの前提(①~④)において、科学というものは基本的に共有出来る感覚のものとしている。
「"テーブル"は現実に在るもの」を共有出来る感覚である、としなければ、これら4つの分け方が破綻してしまうのと同じように、である。

また"常識"という概念をここでは認めている。
この常識というものは時代や環境、又は多数少数によって異なるものであり、変動性のあるものである。
つまり、時代や環境によって常識が変動すれば、①と②は変動することがある。

例えば
「赤信号だけど車来てないから渡ろう」
という台詞は、常識から外れた行為である環境下では②であるが
それが常識的な環境下(当たり前で普通のこと)では①である。

前置きが長くなったが、この❷の序論の例で判るように、科学の発展は③の範囲を縮小させる作用がある。
しかし、それは些細なことであるかもしれない。
何故なら、③の思考が潰えるのは人間がそれ以上の幸福を想像出来なくなった時だけであるからだ。
最大限の幸福を感受し続ける装置を人間に装着させた時のみ、③は潰える。
因みに、この場合は①②③④という切り分けはその概念だけが残って人間はそれを用いた活動をしなくなるだろう。これは実質的には言語の消滅である。

ここで説明したかったのは科学というものの立ち位置なので、これで終了とする。

❸人間が先行しなければならない理由
言葉でも良いのだが、数学のほうが分かりやすい気がするのでここでは数学を用いて説明することとする。

数学や科学の話は①と②と③に属する。
・数学を教えること
は①に属するし
・一見勘違いしがちなことを数学的に説明すること
は②に属するし
・数学を知らない人が話す数学の話
は③に属する。

ここから分かるように完全に無知な人間は③しか話せない。若しくは信念的に数学を認めていない人間にとっても、数学の話は③である(こちらの方が分かりやすいかもしれない)。
このことから分かるように相手から見てそれが①に見えても話者にとっては③であることもある。
"数学というものは◯◯という性質があり□□という目的のために用いられるものである"
という認識が無ければ、【雑な数学の話者】は③と"見做される"場合もある。

また、「この数学は実体験に即したものであるから正しい」と一見雑に見える理由付けをする話者は①や②だと思いながら話している可能性が高い。

分かりやすく説明すると①~④の分け方は、話している内容の絶対的理解度ではなく、話者の話している内容に対しての主観的理解度に起因するということである。
①だと思いながら話していれば①であるし、③だと思いながら話していれば③であるということである。

つまりこの4つの分け方において、必ず言葉は先立たない。必ず人間が先に在る。
私がそういった性質になるように切り分ける理由は、言葉を先立たせて定義した場合「人間という種が創造した言葉」という順序を尊重しない結果になるからである。

そして、そういった定義で語られる世界には必ず限界が訪れる。
何故なら、言葉という単位を人間より尊重した結果導き出されるものは論理で象られるからだ。
裏を返せば、これらで象ることが出来ないものを導出することは出来ない。
些か人間という不安定性を可能な限り排除していった誠実な形であると思う。
ただし、定義は論理の最小単位であり、そこには異論の余地が無いものとするものであるから、狭い定義は常に危険性を孕んでいる。

私が嘆いているのは、不安定性の強い生命体が生み出した安定性の高い"言葉"というものが導き出すことの出来るものが、何やら【崇高なものである】と信じて疑わない人間が多すぎることである。
言葉は人間を超えない。

それを深く理解した上で、
「言葉は人間を超えないが、言葉を超える人間はそれを認識出来ない」
とでも言って欲しい。
果たしてここでの認識に何の意味があるだろう。

きっと踊れば良いのだ。その表現は、認識出来なくても構わない。そこに人間が在るだけでそれ以上は必要無いだろう。


❹③の効用
私は❸を②と③で話したつもりである。
~果たしてまでが②である。以降が③である。
つまり私は、この❸に対して①で反論をされた時、それを的外れなものと見做すだろう。

❸において、③の成分はたったの4行である。
しかし、私は③の反論は清く受け止めるだろう。
③は好き嫌いで語る分野だからである。
好き嫌いは何よりも優先されるものだから、③で終えているのだ。
②で突き詰めても、③で終わって仕舞えば台無しに思えるだろうか。
私は付け入る隙が多くて共感性が高いな、と感じる。
そしてそれは私の中では論理よりもよっぽど重要視されて良いと思っている。

❺④について
④を孤立化させたのには理由がある。
それは④がどれにも当て嵌まらないからに他ならない。
夢の中の我々は自分の感情をコントロール出来ていない。③の究極化とも捉えられるが、③を私は自我と完全には切り離せないものと考えているので、やはり根本的な性質が異なる。

終わり。






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