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三つの問い

久しくこういう話をしていないな、と思ったので少し何か落ちていないか探してみた。
僕は哲学という言葉そのものが嫌いだが、哲学界隈で行われている作業は"エンターテインメント的"に好きではある。

では僕もエンターテインメントしてみようではないか。

①私とは何者か?自己同一性に関わる問題
②AIには心がある?そもそも心とはなにか
③犠牲者が少なければ良い?トロッコ問題

あるサイトからそのまま引っ張ってきたのでなんか問題もおもんなさそうだけどとりあえずやってみる。


① 私とは何者か?自己同一性に関わる問題

哲学という言葉は嫌いだが、哲学という括りは好きだ。
哲学は論理の外でも良いからだ。
論理の内でなければダメだと言うのならばやはり哲学は嫌いだ。
少なくとも僕の目に映る哲学は"何でもアリ"という曖昧性の下で成り立つものだと思っている。

さて、私とは何者かという問いであるが、
【私が私である必要がある状態の時は私であり、そうでないなら何者でもない】
としてみるのはどうだろう。

念のため言っておくが僕は気分屋なので、今そう思っただけである。2時間後にはきっと違う考えになっている。そんなものだ。

多分、自分というものの軸になるのは自我で、その自我を保つ必要がある理由は"記憶"に在る。

僕たちは生存本能のついでに思考能力を有しているが、その思考能力とやらが私とは何なのか、という不必要な問いに発展させた。

真っ白になって考えてみて欲しい。
"私って何なのか"
と産まれて最初には多分思わない。
産まれて時間が経たないとそれを思わない理由は、記憶が蓄積されたからである。
この記憶というのは経験である。

その経験の中であなたが何者なのかが分からなくなった時、別にそのままで良いならばあなたは何者でもないし、それで苦しいならあなたはあなたであるべきだろう。


②AIには心がある?そもそも心とは何か
無い。
心とは核による"性質"と、それに対する"外的影響"によって形成される"変動性のあるもの"だからである。

AIには核が無い。
核とは人間の性質そのもののことであると捉えて良い。
例えばトマトが嫌いということが核である。
これは多分好き嫌いスタート。
例えば快や不快レベルの認知で雷の音が嫌いな赤子が、それに似たシンバルの音を嫌がるようになってから、シンバルの構造を見つめて矯正していくまでが"心"である。

核とは「なんか証明されてなさそうだけど人間に先天的に備わってそうなやつ」のことである。

AIに心は在る、という意見があるのであれば僕はその意見を嫌悪するだろう。
何故ならばその意見を言う人は、"AIに決して備わらないのが心である"という信念を持っていないからである。

仮にAIに備わるのが"心"であったとして、僕はそれを愛せないだろう。であるならばそれを僕は心と呼ぶ意味が無さそうだ。


③犠牲者が少なければ良い?トロッコ問題
進路を切り替えなければ5人死んで
ボタンを押して進路を切り替えれば1人が死ぬ
ってやつ。

これって進路方向に居る五人って進路方向に居るんだから、そいつらが悪いんじゃね説あるんだよね。
だってトロッコ走らせるのにその進路上にいる奴ら絶対悪いじゃん。
だから変えないかな。

この問いって哲学とか倫理とかそういう質問というよりは、現実に応用出来る質問。
発生している時点で期待値がマイナスである、という事象ってこの問い以外にも現実世界に多くて、その事実が分かってない人は兎角煩いんだよね。

まぁそれは置いといて。

難儀なのが、進路上にいる5人が悪でないと仮定した時のこの問いだ。

例えば、こちら側が勝手にトロッコを走らせて分岐点付近で通路修理をしていた5人ペアと1人が被害者になろうとしている、というパターン。

ここでようやく"選択"の話が出来そうである。
"行為に選択(以降、行為選択者)"を置いた時、ボタンを押すことはなるほど罪になるだろう。
その信念の人がボタンを押せば罪悪感に苛まれ続ける人生を送りそうだ。

"思考に選択(以降、思考選択者)"を置いた時、ボタンを押しても押さなくても罪になるだろう。
その信念の人はこのイベントが発生した時点で人生最悪である。

この問いは元々"~すべきかどうか"という問いなので、倫理観ベースというか罪悪感ベースで答えても良いのではなかろうか、とも思っている。
上記の例を示した上で、一義的な解答を避けるなら
行為選択者であればボタンを押すべきでない。
思考選択者であればどちらでも良い。

となる。
では行為選択と思考選択に関してだが、行為選択者は【自然性を尊重する傾向】があり、思考選択者は【自分がその自然性を形成する一人であると自覚している】という傾向がある。

少年がリンゴの木の下に立っていて、リンゴが落ちてきた。
そのリンゴを手で払い除けた時、行為選択者は"自然に反抗した"と思い、思考選択者は"より幸福感の強い自然に運ばせた"とでも思うのだろう。

ただ、我々はこれらに於いて思考の表層でしか過ごしていない。
今読んでいるあなた方がリンゴの例で、どちらの心情にもしっくり来なかったのは、「少年が助かって良かったー」で思考を止めているからである。

大体のことはそれで良い。

一般的には少年が助かるだけだから良いのだ。
しかし今回の一件では必ず誰かが死ぬ。
この時、助かって良かったー、的な思考だと何かとしんどいはずなのだ。だって助からないから。
人間は中々死を割り切ることは出来ない。
論理的に考えれば

マイナスイベントの発生(マイナス期待値)

ボタンを押して1人の死でマイナス期待値をマシにした!

ヒーロー気取りで晩酌

となっても良さそうなものであるが、死者が出ると人間はどうもこういう心情になりにくい。

人間は、こんな無意味な世界でもその中で擬似的な意味性を求めることで救われる"意味不明な生き物"なのだ。

相談者が、対応者に対してうんうん、と頷いているのを見たことがあるだろう。
あれは対応者が"何かしらの意味"を与えて、相談者が喜んでいる「餌付けの図」である。


そろそろ本題に戻るが、これらを踏まえてどうすべきか、という問いに答えるのは難しそうだが、僕はボタンを押すべきと答える。

僕は"思考に選択を置いている"ので、ボタンを押すのも押さないのも選択である。
トロッコが勝手に走り出したという仮定(5人と1人がどちらも悪ではない)であれば、人数以外に意味を見出すべき部分が見当たらない。

ほんとごめーん!!!!
って叫びながら死んでもらうのだ。


終わり。






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