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夢と現実

夢の中の雑多な存在は、唯在るだけという舞台装置の役割から外れない。認識のスポットが当たらないそれらは私を取り囲む"何か"という存在から決して逸脱しない。
更にその前提理解すらも無い状態が夢の中である。

その世界で繰り広げられることに対して私が感じるのは私自身の感情の動きだけで、それに対して現実の世界観で疑いを持たぬ常のように、その世界に対しても疑いを持たない。
また、深層心理から繰り出されたキャラクターに対しても疑いを持たない。

私の前に立ちはだかる全ては私の深層心理から生み出されたものであり、その世界の森羅万象はそれに対して無自覚的な私の前に立ちはだかる。

夢の不思議なところはー俯瞰的にその世界を見つめるー例えば映画のような夢を見ないことだ。
私という登場人物が居らずともーいや大抵は私という登場人物はいるのだがー何かしらの視点に寄り添ってとにかく、感情が揺さぶられるのだ。

それは認識のスポットが特定の対象に定まっているからである。
雑多な存在に目を向ける発想や瞬間はその世界観の私には無く、私自身が象った世界に他の誰でもない私が怯えるのだ。

夢の一番面白いところは、怯え、即ち私の感情までをも私の世界観としている訳ではなく、何故か世界観と感情は切り離されていると感じる点である。

夢から覚めると、汗をかいていることがあるだろう。
恐怖という感情までは世界観に組み込まれた要素と昇華されずに、現実の感情のまま夢の中に残っているのだ。

これは、自身の感情を掌握し切れていないためではないか?と仮説を立てたい。
自身の感情を掌握し切っているのであれば、コントロールの利かない感情というものが発現しない筈なのだ。

集中しているときー他の事について思考を割かないときー私たちは生きている心地がする。
否、生きている心地を自覚しない幾秒かに真の生きている状態というのは限られると言った方が誠実かもしれない。

私を含め一定数の人間は現実を生きるにおいて我儘でいられなくなる。
相手の気持ちを考えたり、そういう人間がいることを認めたり。

幼い頃に気に喰わない相手に対して横暴に振る舞っていた感情の動きが現実感そのものであり、逆行する許容は非現実感そのものなのだ。

私にとって夢は魅力的だ。
現実世界での非現実感により掌握し切ったと思っていた感情が、咳を切ったように流れ出てコントロール出来なくなるからだ。

事実を見つめるという大人びたーまるで社会の中での正しい在り方かのように語られるー思考が、この世界の現実味を無くし、夢で発現する現実に怯える。
夢の中だけが、純度の高い私で居られる寄り辺と錯覚してしまうほどに。

コントロール下の感情で恐怖を楽しむことがまるでマリオネットが操られているだけかのようにバカらしくなる。

赤子の頃にはきっと持っていた、幼少の頃にはきっと抱いていた、感じたままに揺れ動く私そのものがまるでそこにいるみたいに、
恐怖を真っ直ぐ恐怖する生の実感がそこにはある。


夢から覚めると、雑多なものを照らし続ける認識の灯が、救いとは真逆の方向に動き出しているような、そんな心地がしたのだ。
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