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宗教とカリスマ①

宗教という存在の賛成と反対について自分の意見をまとめたんだけど
わがまま言うなら反対
わがまま言わないなら賛成
となると思った。

わがままというのは、宗教という形でコミュニティーを形成していくのが人間の在るべき形でないと思っているからだ。

私が人間のこと(決して社会でない)を考える時に重要だと思っているのは、自由、個性、次いで命だ。
この三本より優先されるものは何一つとして無い。

自由や個性を欠いた人生を歩むのであれば、それはあなたじゃなくても良い(あなたがわざわざ感受しなくても良い)し、命がなければ自由や個性を掴めない。
命がこの二つよりも下位に来る理由は、自由や個性を全うした結果死ぬのは有意義な人生だと判断するからである。

しかし同時に、万人がこの考えにならない、むしろ多くは(個性というものを蔑ろにしてまでも、そしてそれが個性だと主張されても反論しないとすれば)社会的存在の一人である自分というものを尊重していることも承知である。

その考えを汲むのであれば、私は宗教に対して賛成である。
宗教という"居心地の良い社会"を選択する権利はあり、そしてそれは当然その人にとって幸せであり、それを止める権利は私には無いからだ。

実はこの記事の本題はここではない。
ここからは結論が出ていない本当に書きたいことを書いて(考えて)いく。
つまりここからは私の興味がある話だ。

宗教とは何か?
ということだ。
私が考えたのは、
宗教をやります、と宣言すること、またはそれに準ずる行為が宗教の始まりであること。
加えて、団体の実益の大半がお布施によるものであること。

これが私の宗教の定義だ。
ここで私が考えたいのは
【宗教と宗教的の違い】である。

私は度々"カリスマ"の話をしたがる。
このブログを作った理由も、いつかカリスマというものを言語化したいと思ったからだ。
今回はこの記事を進めるにつれて、カリスマというものに近づいていきたいと考えている。

というのも、カリスマというものは宗教に似ている。
教祖がいて、信者がいるという宗教団体の構造と、カリスマとそれを取り囲む集団の構造が酷似しているのだ。

異なるのは
・カリスマは多くの場合、勝手に人を惹きつける
・カリスマは多くの場合、カリスマであるという"売り"以外に実益的な活動(役者や歌手)をしている
という二点である。

YUKIという歌手を取り上げたい。
私にとって、カリスマという言葉から連想される最初の人物は紛うことなきYUKIであるからだ。
彼女はかつてJUDY AND MARYのボーカルを務めており、現在YUKIという名前で活動をしている。

私にとって彼女がカリスマだと感じる理由はなんだろう。
魅力的だからだ。
彼女の歌詞は優しい。
彼女のステージングは美しい。
まるで生まれながらにして武道館でLIVEすることを宿命づけられていたかのような、そんなオーラを感じる。

あと、私は男性なので女性の方が魅力的だと感じることが圧倒的に多い。
女性の感性から発せられる何かが、男性である自分の感性では決して辿り着けないものであることが多いからだ。

森絵都という小説家がいるが、私は好きな小説家は誰かと訊かれたら迷わずに彼女の名前を答える。
かつてあったかのような懐かしい感情が、彼女の小説を読むと蘇ってくる。
そしてやはり、女性の文章は男性の悪いところが出ない。
うまく説明は出来ないけれど(抽象的な表現をするならば、男性の方が恣意的で誘導的で自己顕示的だ)。

さて、YUKIに関してであるが、単刀直入に
彼女が教祖であるか否かの話をしたい。
これを読んでいる(暇人の)みなさんは、自分にとってのカリスマを思い浮かべて読んで欲しい。

YUKIは直感的に教祖でない。
それは教祖というものにきっと悪いイメージがあるからだ。
教祖というのは信者を洗脳する。
多様性を認めようとしない。
YUKIは先導するけど多様性を否定する存在ではない。
彼女は彼女に魅了させられたファンの一挙手一投足に気を配らないからだ。

AKB48というアイドルグループが握手券というシステムを導入した。
"会えるアイドル"として親しまれた彼女達は、秋葉原で近距離で目撃出来るアイドルとして売れる前から根を張っていたのだろう。

私は近くで見ることが出来るアイドルという存在を
"カリスマ的観点"で良しとしない。
アイドル(=理想)とは知れば知るほど、近ければ近いほど現実味を帯びるからだ。

現実味を帯びれば帯びるほど、その人が神秘的な存在でなくなる。
そういえば、ここらへんのことをアイドルグループのファンはどう感じているのだろう。
誰かに話を聞いてみたいと思うことなんて滅多にないけれど、アイドルのファンに対しては訊きたいことがたくさんありそうだ。

そういえば、時折
「幻滅した」
という人がいる。
というのも私は、幻滅しない。
YUKIが覚醒剤や人殺しで捕まったとしても幻滅することはない。
この、幻滅した、というのはどういう感情なのか私は知りたい。
(盲目的なファンは、自分が描く理想像をそのまま自身がカリスマと置く対象物に求めている、との回答を頂いた。)

私の中のカリスマは、カリスマのままで留まって、カリスマじゃない時に幻滅させるような何かをしただけで、私が見つめ続けたカリスマとカリスマじゃないYUKIに、人間としての連続性は無いのだ。

簡潔に言うと、YUKIがヤク中になっておかしくなっても、あの頃のYUKIは消えないのだ。
「幻滅した」
と言う人はカリスマを見つめる上で、カリスマでない瞬間がない生命体としてその人を感知しているのかもしれない。

それもまた、心地がいいものなのかもしれない。
自分という存在よりもカリスマの主張を優先させることで、カリスマの全てを受け容れることが出来る。
無意識下でそうしていたものの、受け容れることが出来ないほど醜悪なことをされた時、その人は
「幻滅した」
と発するのかもしれない。

ヒトラーがファシズムで国民を煽動した時、そしてそれが終わった時も、案外そんなものだったのかもしれない。

誰かを受容しきることは、思考力がない人間にとって最も高いハードルである"自分で考える"ということを、最も簡単な形で潜り抜けられるから。

ただ、この形が
【カリスマと我々】の関係性としては一番美しいのだ。
カリスマの全てを受け容れて、ただただ享受する。
間違いなくこれは美しい。

「幻滅した」人々は、有終の美を飾った誉れ高い存在なのかもしれない。
(恐らく最も美しい形は、自分が思い描く理想像を変化させ得るほどのカリスマの台頭と、信者の発生である。
即ち、カリスマの言動、行動が自分にとって醜悪なものであっても、それが本当は理想なんだ、と信者が洗脳されるくらい魅惑的なカリスマの発生。)

私はその人の全てを受け容れるのではなく、そのカリスマを受け容れる、であるから、少し違う形。
いや、私の中でカリスマはカリスマとして存在し、カリスマでない非カリスマも同居しており、私はその非カリスマには興味がないのだ。

カリスマに対しては誠実だが、人間としての全てを認めているわけではないということだ。
そしてこれは、結構共感されるものだという感覚がある。


(本題から逸れたし)疲れたから終わり。
またいつか書こう。

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