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論理と論理化の違いについて

論理的思考力って言葉がある。
今回はこの言葉について書いていきたいと思う。
出来れば多くの教育者に届いて欲しい。

この論理的思考力という言葉、実は結構勘違いされている部分がある。
例えば
"論理的思考力がある"ということは
"論理的に考える力がある"という風に解釈することが多いと思う。

実は正確には違う。
これが脳科学でどこまで証明されているかは分からないが、自信があるので言及していくことにする。

では何故、この捉え方が間違っているかと言うと
正しくは"多くの前提に共感性がある"だと思っているからだ。

この共感性、という言葉はギリギリ"興味"という言葉に置き換えても良い。

まず、実体験で話していくのだが、私は基本的に物覚えが悪い。
どれくらい悪いかと言うとめちゃくちゃ悪い。
病的にだ。物覚えが悪い上にすぐ忘れていく。

しかしそんな私にも何故か長く覚えているものや、覚えやすかったものがある。
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円周率や元素記号。
これらを覚えたのは中学二年生くらいの時だ。
もう10年以上も前の記憶なのに、当時覚えた元素記号(111番のレントゲニウムまで)は恐らく今でもほとんど覚えている。

逆に鮮明に忘れ切っていると痛感したのは、社会科の記憶。
ほぼ全て忘れていると言って良い。
というよりこの辺の記憶はテストが終わった瞬間に全て飛ぶタイプだった。
多くの人がそうだと思う。それの究極形だと考えてくれて構わない。本当に"全て忘れる"のだ。

この話が論理にどう繋がるかというと、社会科は
【出来事に理由をつけて覚えろ】
とよく教わっていたのだ。
私にはこれがよく分からなかったのだ。

この"分からない"という感覚が多分ふつうの人には【伝わらない部分】なのだ。

これは本当に自分の話になるのだが、私は恐らく軽度の発達障害の持ち主である。
普通に生活する分には不便がない(物忘れが病的に多いくらいか。でもそんな人はたくさんいる。)し、普通というものがどういうものかということも理解している。

しかし、当時から明確に他人より劣っていたと感じていた部分がある。
それは【文章理解速度】だ。
文章を読んだ時、或いは誰かの話を聞いている時
私の理解は他人より1.5倍くらい遅かったのだ。
長い話は途中で分からなくなる。
まぁ誰しも経験自体はあるだろう。

特に「イトコやハトコ」なんてワードが飛び出すとおしまいだ。
私の脳はイトコというものがどういう親族関係でどういう位置付けなのか、ということを確認する作業に追われてもう何も分からなくなる。
更に補足するなら、私は「イトコ」というものが何なのか大人になるまで【暗記出来なかった】のだ。

イトコってなんだっけ?
と聞くたびに説明を受けて
はぁなるほどそうだったな
となるのだが、次イトコという言葉が出るときには分からなくなっているのだ。
忘れているという感覚ではない。
"分からない"という感覚だ。

これは何故かと言うと
【イトコという正体を正確に辿るまで経由しなければならない存在が多すぎる為】だと考えている。(+αその人のことを知らないから。)
話者Aが
「僕のイトコが」
と言うと
イトコ…?
えっと、お父さんの弟の娘…?いや…お母さんの妹の息子…?おじいちゃんだったっけ…?それはハトコ…?
"イトコってなんだっけ?"

こんな感じだ。
そんなことを考えているうちに話は進んでいくのだ。
そうするともう何の話なのか分からなくなっている。

それがこうなると話は早い。
「この前タケオ(私の知っている人間)がさぁ」
ほんほんタケオね。

これで終わりだ。確定しているから考える余地が無いのだ。
これは発達障害の特徴だと思う。
隙が多い話が苦手なのだ。
どのパターンかを"確定していかないと次に進めない"というか。

では、それが論理にどんな関係があるかと言うと
【社会科という科目は穴が多すぎる】のだ。
まず、社会科を覚える際に求められるのは
【共感性】だ。この一点に尽きる。何ならこれだけだと思っている。
もちろん、量で補える分はあるが、共感性の強さ次第でスタートラインがかなり違う。

私はこの科目に対して昔から【一切の共感性が働かなかった】。
(縄文時代までは好きだった。あいつらは戦ったりしないので。世界観に対しての人間像としてめちゃくちゃ共感性が高い。)
理由付けして覚えろと言われたら
「そもそもみんな仲良くすれば良いじゃん」
としか思えなかった(今ではある程度改善されていると思う)から【理由そのものが発生しない】
のだ。

つまり、【理由もまるまる暗記しなければならない】ということになるのだ。
社会科という科目はその性質上、
【一人一人の人間について掘り下げて触れられない】。
具体的には
【松尾芭蕉は俳句を詠む人】といった程度にしか認識されないのだ。

例えばこれが自分の関わりのある人間だったら違う。
自視点で見えているその人物像から、その人物がした行動の理由なども推測出来る。

しかし私は【知らない人間の知らない行動を、共感出来ない理由を以て覚えろ】という無茶なことを言われているのだ。

これがかなり苦しかった。
というかハッキリ言って無理だった。
その点、数学というのは信頼性が高い。
何故なら、数学の世界では
リンゴが一つ、AからBに移動したらAのリンゴは一つ減り、Bのリンゴは一つ増えるからだ。

社会科は違う。
AからBにリンゴが移動したと思ったら、自分の知らないうちにAのリンゴが増えていたりする(その学年で習う範囲外のことが起きていたり)のだ。
こうなったらおしまいなのだ。

別におしまいじゃないじゃんって感覚の人は発達障害じゃないと思う。おめでとう。
私はこうなったらおしまい。

すごく気持ち悪いことを言うと、社会科って"きれいな法則性"が一切ないのだ。
ハッキリ言ってこれでは覚えようがない。
全人類の一分一秒を漏れなく自分の脳にインプットして、全員の行動理由が明確に推測出来た時初めて成り立つ論理が【途轍もなく省略された形】で我々の前に現れる。

これがムリなのだ。

では、円周率や元素記号はどうか。
彼らには"理由が無い"。
余計な要素が無いのだ。
だから【覚えられた】。

理由が無いから隙が無いのだ。

––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––
この感覚を踏まえて本題に入るのだが
【"論理"】と【"論理化"】は異なるものなのだ。

大事なことなので、強調マークを二個ずつ使ってしまった。

"論理"とは
「1+1=2」のような必然だ。(厳密にはこれも論理化の一つと言いたいのだが、長くなるのでその話はしない。)
"論理化"とは
「源義経が兄である頼朝の許可を得ずに戦いを行ったので、頼朝の敵となった。」
などの"論理ぶっているもの"だ。

この論理化、大きな問題点があって
【共感してくれることを前提に論理(みたいなもの)が作られている】のだ。

もっと分かりやすく私が三つの例題を出そう。
①「Aくんは、道で迷っている人が居たので助けてあげた。」
②「Aくんは、道で迷っている人が居たのでそのまま通り過ぎた。」
③「Aくんは、道で迷っている人が居たので殺してあげた。」

恐らく全ての人が②と③の文章に違和感を抱くだろう。
これは②と③の文章に【共感出来ないから】である。
それ以外の弁明は不可能だ。
だってあなた方はこういう時
「③のAくんっておかしくない!?」
ということしか言えないのだから。
最初から多数決でしか会話をしようとしていない。
まぁ良い。

さて①~③の文章は全て
接続助詞「ので」までをA、「ので」からをBという風に分けた時、AはB(結論)の理由部分としての役割を持つ。

②の文は「ので」を「が」に変えるとみんな納得する。
そうして初めて共感出来るからだ。

③なんかは【意味が分からなすぎて印象に残る感覚】を抱かないだろうか。
「え!?どゆこと!?」
みたいな強いインパクトがあるだろう。

では私にとって、社会科とはどのような存在か。
完全に②である。
共感も出来ないし、印象にも残らない。
②のような出来事を【延々と覚えろ】と言われる感覚である。
「は?なんで?意味わかんね。わかんねーけどどーでもいいや。」
授業中はほぼずっとこの感覚である。

普通以上の人にとっての社会科とは、恐らく①なのだ。
ふむふむ、そゆことね、ふっふふーん、こんな感じだ。多分。

発達障害の特徴として彼らはよく
「なんで?」
と尋ねる。
これは共感出来ていないからだ。
自分の中の当たり前と全く違う当たり前を【共感ベース】で分かるよね?と言われているから
【分からない】のだ。

言っておくが、私は"軽度の発達障害(自称)"だ。
大抵のことは共感出来るし、共感出来ずとも【多くの人間は共感出来ることなんだな(納得出来る説明なんだな)】という理解はある。

しかし、小学生の頃なんかはそんなことはなく、全てのことを意味のないこととして覚えていた。
簡単に言うと全部暗記する感じである。

小学校の頃から私は漢字が得意だった。
中1か中2で、漢検三級を1ミス合格だったのを覚えている。
(イナオる=居直る、という書き問題を落としたことまで覚えている。)
ちなみにノー勉である。自信があったからだ。

当時私は、一度見た漢字を覚えられる能力があった。
これは超能力的なアレではなく、知らない漢字を見かけたら当たり前のように調べる癖があったのだ。
ただ、明らかに私は自分の能力値に対して、漢字だけが突出して出来た。

漢検二級(高卒レベル)を高1の時に2点足らずで不合格(1時間だけ勉強した)だったのは悔しかった。
偏差値50未満の高校だったので、そんなものを受けているのは変質者である。

というのも、漢字はなんだかややこしくないのだ。
今になってようやく分かった。
何故自分が、漢字というものが得意なのか。
それはややこしくないからだ。
由来とかはあれど、造形と読みを覚えるだけなのだ。
そこに意味や理由は殆ど必要ない。
加えて言えば、漢字に関する意味や理由は、あったとすれば個人的に納得性(共感性)がある。
だから覚えやすいのだ。


何が言いたいかと言うと、
部下や後輩、そして子どもたちに
【理解力がないことを理由に苛立つのやめませんか?】ということだ。

そもそも、理解したくないからしてない人なんて殆どいない。
【出来ない】のだ。理解【出来ない】の。
この出来ない、という感覚が存在することを知ることから始めませんか?という提案である。

しかし、理解してもらえないままでは困る。
そこで!
解決法は簡単。
"強引に比喩法を使う"
これだ。

例えば、さっきの頼朝と義経の話でぽかーんとしている子どもが居たとしたら
「義経が頼朝のプリン勝手に食ったから、頼朝がキレたってこと。」
これくらい雑で良い。そして身近であれば身近であるほど良い。
説明の手段なんて何兆通りもある。

(俗的に言われる)目下の人間に対して"怒る"という行為は、もっと戒められるべきだ。
何故か、怒ったもん勝ちみたいなとこあるからね。
人を怒らせたら悪い、みたいな。大抵は怒る奴の能力不足だからそれ。恥じろ。



終わり。







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