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時間と光

今から書くことは私の妄想である。
これがどこまで広がるかは私には分からない。
しかし、私が最も興味のあることの一つでもあるので書いていこうと思う。

最近、時間と光について考える。

遡ること五年近く前になるだろうか。
知人の一人が
「時間は存在しない」
と言った。その時の自分の反応さえ覚えていないのだが最近になってなるほど、時間は存在しないことをひしひしと感じる。

私は高1で数学と理科は終えている(今思うとアホなのかと思う。文系科目なんて何一つ面白くない。)のでこれから書くことは本当に完全に妄想である。

まず、時間は存在しない。
その説は自分の中でしっくり来るのだ。もしかしたらとっくの昔に証明されているのかもしれない。

マッチの火を例に出そう。
マッチの火が10秒燃え続けたとしよう。
この"10秒"という感覚こそが我々人類の感性を狂わせてきた。
どう狂わせてきたかというと【死生観】だと思う。

その話は置いておいて、何故この10秒が存在しないのか。
答えは簡単だ。
マッチの火が燃える理由を紐解いていく時に、この"10秒"という言葉だけが【構成要素を持たない】からだ。

この作業は
マッチという可燃性物質に対して、酸素という助燃性の気体を与え続けていった"反応"である。
この反応の中に時間は出てこない。

ちなみに
「時間が無かったら止まるから動かない」
という反論に対しては、【ものとものの反応】が我々に時間を存在せしめる原因である。
と答える。

つまり、時間というものは【ものとものの反応】なのだ。
この"もの"というものは
個体や液体、或いは視えるか視えないか、ということにもちろん捉われない。
我々が観測出来るかどうか(我々の知覚、そして思考の全ては反応)は、その反応の【相性に依る】からだ。

たとえば、我々は光は見えるが赤外線は見えない。
これは、相性の問題だ。
知覚や思考の相性によって存在するしないを決めることは、人間視点でものを話すことになるので意味がないのだ。

"観測者がいなければなにものも存在出来ない"
こういった論を聞いたことがないだろうか。
このことばの本質は
Xに対してYという観測者(反応)が無ければそれを誰も感知しないことになり、それは存在していない。
ということである。
語弊が生まれそうなので、もっと「きっとこう言いたいんだろうな」という風に意訳すると

【反応がない世界に"もの"は存在出来ない】

ということである。
反応がない世界には観測者は居らず、つまりそれはものが存在しているかどうかを(その"もの"が仮に自分自身であっても)証明(自認)することが出来ないということである。

更に当たり前のことを言うと、そこで生命体としての活動をするためには生命体というものを物質の最小単位にする必要がある(原子核、電子、陽子、それらのレベルまで生命体が原点的にならなければならない。我々の中に心臓があるように、原子の中に電子があるように、そのものの"内的反応の連続"によって生命体は生命体たらしめているのであり、内的反応のない生命体(最小単位)というものを創造しなければならない)。

内的反応のない生命体というものは、想像出来ない。

何故ならそれは存在することが出来ないからだ。

どういうことかと言うと、内的反応を示さない"もの"を認めてしまうと、この世界に【無】が存在することになり、【無】から【有】が発生することになる。

内的反応を示さないものは【無】である。
そこから【有】は発生し得ない。
この感覚こそが、私が"世界に最初はない"と断言する根拠である。

人間的感覚に寄り添うと、どうしても"区切りたがる"のだ。物語にはじまりがあるように世界にもはじまりがある、と。そう捉えたがる。
しかしそれは違う、と。そういう話だ。


光というものがある。
"もの"が光の速さを超えるとタイムスリップする、とか確かそんな話がある。
極めて感覚的に無知識の状態で、これについて考えていきたいと思う。

まず、前述したように時間は存在しない。
このことから、タイムスリップというもの自体は然程不思議な現象ではないことを考えたい。
酸化還元反応というものを中学の頃に習った。
錆び(酸化し)たり、錆を取り除くことが出来(還元し)たり出来るみたいなことだったと思う。
この現象を考えた時、タイムスリップは然程不思議な現象ではないと思うのだ。

酸素というものが充満している状況において、ものに酸化(人間で言うところの加齢)が起こることは必然であるが、手を加えればそれを戻すことも出来る、と。

まず、懐疑的なのが"速さ"という概念だ。
光の"速さ"と言うがそもそも速さの正体とは何なのか。
私はこれがよく分からない。
速さを捉えるためには観測(反応)が必要だ。

ものとものの反応が世界を形成している、という前提において、たとえばチーターが走るのが速い動物だと仮定した時、我々はその速さを捉えている。

捉えられるものは捉えられないものより遅い。
つまり、私の感覚では私たちの"目"の方が速いのだ。

移動というものは動力が必要でこの動力は
内的反応と外的反応によって確定される(たとえば、脚力(内的反応)と地面状況(外的反応))。

ということは、光の速さを紐解く時
内的反応と外的反応の二つに区別して解明しなければならない。
たとえばブラックホール(外的反応)からは光も逃れられない、など。

何が言いたいかと言うと、この"速さ"という概念、極めて怪しいと感じるのだ。
まるで、速さというものがその"もの"の潜在能力であるかのように語られている気がしてならないからだ。
そこに対して私は懐疑的だ。

とりあえず疲れたから今回はここまで。
進展があればまた書く。
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