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努力とは何ぞや?

「学生の頃一番努力したことは何ですか?」
「高校の部活で最も努力したことは何ですか?」
「サークル活動で努力したことは何かありますか?」
「貴方の人生で最も努力したことは何ですか?」

就活シーズンですね。就活を始める皆さんも面接でこういったことを面接官に訊かれると思います。
斯く言う私も1年前のこの時期は、就活・・・してないですね。インターン="準備運動"とナメてかかっていたので、インターンに参加するということ自体が、ウォーミングアップしなければ本番に臨めない臆病者のやる行為だと思っていた訳です。
春休み中ですしね。インターンやってる時期って。早い人は10月くらいからインターン参加したりしてた気もしますが、目先のことしか優先出来ない性分の自分にとっては、まぁ当然天鳳をしたり、人狼動画を見まくっていた訳です。

そんなこんなで3月末とか4月ぐらいですね。そろそろ一本ぐらいやっとくかぁという感じでES(エントリーシート)を書くかぁとなったのが、松竹です。
歌舞伎は全く興味無かったのですが、映画関係の仕事は面白そうだなぁ(ていうか映画製作とかキャスティングをしてみたかった)という理由でそっち系で調べて出てきたという感じで。
採用大学一覧が最低MARCHみたいな無理ゲー感が漂っていましたが、エントリーシート見て余裕やんって思ったのも理由の一つです。
ES通過率40%でしたが、難なく通過していざ面接って感じでそこで初めて面接をしたのですが、案の定訊かれた
「学生の頃一番努力したことは何ですか?」
という言葉に何も言葉を返せず(厳密に言うと、笑いながら「努力したことですかぁ…」みたいな)終了したところで僕は思うのです。
"努力って何"と。

そうですね。まず反省すべき点は、その辺の質問は面接の常套句なんだから用意しておけ、ってのと、努力という言葉に対する認識の鋭さを他人にも求めてしまったが故に向こうの真意を汲み取れずに一人戸惑ったことですね。

向こうの真意としてはこうなんですよ。
【学生の頃一番熱心に取り組んだことは何ですか?】
多分、これに近いんですよね。
いや、好意的解釈ではありますが、要は面接相手の人間性を大雑把に捉えていく質問、だと思うんですよ。
いや、そう願いたいものなのですが。

では本題。
努力って何だと思いますか?
ネットで調べてみると
「どりょく
【努力】
《名・ス自》目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。 」
と出てきます。
言葉において、辞書を持ってくる人はセンスが無いですね。今すぐその辞書と腐った暗記脳を破って捨てましょう。

言葉というものは、「壁」と「床」を分かりやすく隔てる効用があります。
壁と床という名詞が無ければ、それらはそれぞれ
「直立姿勢の状態で前後左右、又はそのいずれかに平面に広がる平べったい~」
「直立姿勢の状態で下方に平面に広がる平べったい~」
など、不便だったりする訳です。

では仮に、人が歩ける程度の傾斜15度の「コンクリート」が突然、道の端に出現したとしましょう。

まず、人はこのコンクリートを、恐らく壁とは呼びません。
人の壁に対する認識は、建造物などを囲う為に、地面に対して凡そ直角に且つ(多くが)平面に広がった何か、であるからです。

ではこのコンクリートを床と呼ぶかどうかですが、そうですね呼びませんね。
床というものは基本的に室内で使いますからね。

ではこの謎のコンクリートを何と呼ぶべきか、は使用状態と、それに対する自分の認識、で変わるものなのです。
例えば、道の端にありながらも歩行者が歩行用として、使っている、又は使えるような整備が作った人によって為されているならば、それは「道」と認識される筈です。

そうでない場合(整備無、使用者無)、それは「認識されない」か「謎の、何か」という位置付けになります。

僕はこの未整備状態の言葉が多いと思っていて、努力もその一つだと思う訳です。
要は、多くの人が道と認識しているコンクリートを道と認識する必要は無い訳です。


では努力の話。
先程の例(コンクリートの話)は、結果的事実(整備の有無、使用者の有無)に依る部分が多かった為に我々人間があまり考えを及ぼす必要が無かったのですが、この"努力"というものの正体を掴む為には感覚を要します。
何故なら実体が無いからです。

先程話した
「学生の頃一番努力したことは何ですか?」
に対する僕の脳内リアクションはこう。
(努力したこと…んー、努力したことなんて人生で一回も無いんだけど……あ!そろそろ答えないとヤバ!!!)

僕にとって、努力は難しい。

例えば【大学で授業にロクに出席もしないで友達の力を使って単位を取る人よりも、いつも一番前の席で授業を受けていて、一生懸命勉強をして単位を取る人】
の方が報われるべきだ。

しかしここで疑問が出てくる訳である。
「そもそも大学って勉強する為に行っているんじゃないの?」
「単位の為に行っているのだとすれば、同じように出来なかった自分のコミュニケーション能力を恨むべきなのでは?」
ここから発生する大衆の努力に対するイメージは
【他者に対して文句を言わず、黙々と頑張っているさま】

同じことをしていても、ヘイトを撒き散らしていたらそれは、努力と言われにくかったりする訳です。


面接を振り返ってみましょう。
「学生の頃一番努力したことは何ですか?」

結論から言います。
努力とは




【不当な事象に依る選択の結果発生し得る概念】である。





人間は未来のことは分からないので、瞬間で最善の選択をするようになっています。
将来のことを考えている人も、そうでない人も【その瞬間に自分が最も精神効率が高いと思った選択を必ず取る】のです。

例えば、今この主張を聞いてムカついた人は壁を意味なく殴ろうと【最善の選択】から逃げようとしたでしょうが、当然、僕の振り撒いた【意味】が貴方を必然的にそうさせた訳です。

遺伝や経験、又はその他の何らかのその人を形作る全てのもの、によってその瞬間、何を選択するかは実は決定されているのです。
これは別に、運命的な話でも無ければその人がそのせいで何かに縛られる、という訳でもありません。
選択、というものの本質はそうだという話ってだけです。


「努力」が活用されそうな場面は、先程の瞬間で最善の選択をする際の【将来のことを考えているパターン】が大多数でしょう。
では、例えば叶えたい夢があったとして、それを叶える為にし続けてきたことを【努力】と言えるでしょうか。
更に言い換えるならば、それは【賞賛されるべきもの】でしょうか。

その人が目的を設定して、その為の手段として様々な苦労があることって【当たり前】じゃないですかね。
当たり前のことを「努力してるねぇ」と感心することっておかしくないでしょうか。
しっくり来ないような気がしないでしょうか?

例えば僕にとっての努力とは
善意で友人の保証人になって、友人逃亡借金まみれ、金返す日々。
みたいな、(当人に起因性があるかは一旦置いておいて)【不当に狭められた選択の中で】発生する概念なんですよね。

先ほどの大学で一番前の席で授業を真面目に受けている人が努力しているか否かの話を最後にすると

「大学という場所で、授業を真面目に聞いて一生懸命勉強して単位を取ること」
は【当たり前】
ですが

「その【当たり前】を狡猾な手段を使って(それに対する善悪はともかくとして)行なっている生徒が多数いる中、黙々と勉強に取り組んでいる様子」
は【努力】と【誤認】出来ますね。

っていう話です。

人は、多分なにかを評価する時に相対性を完全に無くすことは出来ないからです。



おわり。
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