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シン・エヴァンゲリオン 劇場版【ネタバレ含】

シン・エヴァンゲリオン劇場版
庵野秀明
☆3.5

評価が難しい。
絶賛されているようだが、その風潮は結構謎だ。
Qの方が圧倒的に良かった。
世界観的な好みの話にとどまるんだけどね。

https://nizidara.com/eva-final-truth/

ストーリーについては上記URL掲載させていただく。
このサイトが一番分かりやすい。

では、この作品が3.5となる理由を説明していこう。


評価点❶
人類補完計画の動機の解明はされたが、その手段がよく分からないこと。
まぁそのまま。
もちろん、何となくは分かる。
ただし、リリスやアダムス(だっけ?)といった具体的な設定を伴っているものに対して詳しい説明がないのだ。
ロンギヌスとカシウス(だっけ?)や初号機と13号機が希望と絶望という対照軸となっているのも雰囲気は分かる。
けど、雰囲気だ。
概ね、世界の発現のようなストイックな真理態度を採り続けてきた割りに、そこはご都合主義的な内部設定にとどまる。
要するに、
世界を作る動機の解明に対して、その手段の解明が不十分だということだ。

まぁ説明はしなくて良いし、これはこれで良いんだけどそういう要素が多すぎて割りと私は置いてけぼり状態。

置いてけぼり状態で良いんだけど、そうなると世界観を楽しもうという鑑賞態度にシフトするわけだが、今作はその世界観があまり好みじゃなかった。
それが本作に対する私の評価理由の全てである。
Qは世界観がドストライクだったので、最高評価となっている。

評価点②
心情描写がいつもより掘り下げられている。
終章ということもあり、心情描写は他作品よりも良かったと思う。
掘り下げられている、と書いたがストーリー上そういうことになるだろうな、という感覚。
シンプルにそれが良かった。
碇ゲンドウの心情を吐露するシーンはこの作品の唯一の救いであるし、アスカの「好きだった、私も子どもだったからね」「少しは成長したみたいね」というシーンは本作でのメッセージ(後述)を象徴させるものだと感じた。

評価点❸
「ドンガラガッシャーン」全部印象に残らない点。
これは自分の特徴だから仕方ない。
闘ってるシーンは一切興味持てないし、ロボットだとそれがさらに訳分からない。
というかどっちがどっちのロボットかもよく分からない。
バトルシーンとかドンガラガッシャーンみたいなのが全然好きじゃないのだ。
マリの戦闘シーンから始まる今作だが、それも長いなぁと思っていた。


とまぁこんな感じ。

そしてここから書くことは私なりの考察である。
考察とは様々な視点があった方が良いと思うので、独自の切り口で話していきたいと思う。
とりわけ、エヴァンゲリオンの考察というのは世界観や設定理解に対するものが多いので、私は製作者側の意図するものが何なのか、について考えていきたいと思う。


考察
◎本作のメッセージについて

そもそもエヴァンゲリオンとは何の話なのか。
人間の話である。
とりわけ、大人と子どもというものを明確に分けた話である。
エヴァンゲリオンは子どもしか乗れない。
理由はシンクロ率(ロボットとパイロットの親和性)が子どもでないと高くならないからだ。

この設定は、大人と子どもの違いが重要であることを示している。
特に本作の(仮称)綾波レイはそのメッセージに対して象徴的な存在で、最も無知で最も好奇心旺盛(作中で「なぜ」を繰り返す)であった。

しかしレイは、その無知さや好奇心を埋め、人間的情緒を獲得していったと同時に消滅した。
これは
【AIが人間と同等のものに進化することに警鐘を鳴らしている】と考えられる

本作を通して言えることは
式波タイプも綾波タイプも、それぞれが酷く自覚的な部分だ。
綾波タイプは
「私の道を歩んでいいの?綾波レイとしてでなくて良いの?」
という印象的なセリフまで残している。
これは"自我"の象徴であり、その自我に対して自覚的だ。
だからレイがトウジと委員長の赤ん坊に触れるシーンが何度も現れるし、赤ん坊はレイに懐く。
あのシーンは同類同士の共鳴である。

アスカは「私はずっと一人」と暗示をかけながらも、
「本当は頭を撫でられたかった」と吐露する。
こちらも自分がどういう存在かということに自覚的だ。
アスカが半分大人になっている、という設定は
レイのことを「初期ロット」と呼んでいたことからも窺える部分かもしれない。
14年の月日が流れ、碇ゲンドウが敵対する存在となり、「エコヒイキ」という渾名が馴染まなくなったためでもあろうが。
少なくとも、アスカはレイが人間でないことも知っていたしその行く末も知っていた訳だ。

加えてアスカ自身は、自分のことを他の人間とは同じように生きていくことが出来ない、と知っている。
そしてこの知り方は自分がシリーズの一つである、という自己認識から来ているような印象を受ける訳だ。
アスカが量産型AIであるとの描写は全編通して無かったような気がする(掲載URLにはアスカはクローンであると言っている)し、ここからは何となくだが
「人間が持つ感情の証明があなたには出来ますか?」
とアスカという存在が説いているような印象を受ける。
つまり、式波という存在は
綾波が
"AIという存在に対しての疑念の象徴"
であるのに対して
"人間の感情に対しての疑念の象徴"
という印象を受ける。

フォースインパクトを通して理想郷(魂の再形成)を作ろうとするゼーレは
「善的な世界の編成のために、性悪的な存在の消滅」
を試みる。
アディショナルインパクトによって、魂の結合を試みようとする碇ゲンドウは
「永遠に交わらない人間(生者と死者であるが)同士の感情を結びつける」
という意図が分かる。

ゼーレの思想はプラトン宛らの選民思想であろう。
碇ゲンドウは作中では利己的なものではあるが
とどのつまり本作は
【人間やAI、それを隔てる感情という要素、その要素に熟考を重ねつつも永遠に交わることが出来なく儚い私たちの物語】
なのだ。


そういえば、観る前から思っていた話をすると
綾波、式波、真希波
とそれぞれ名前に波が入っている。
綾波はオリジナルからいたのでそのまま。式という字は弍に似ているなぁとか思ったりしていた。
波という字は世界線を彷彿とさせる漢字である。
真希波とは、真(在るべき)希(望みのある)波(世界線)という印象があったりする。
(初号機は希望で、13号機は絶望だし)。

とまぁ、漢字的なイメージでのエンドは理解出来るが、真希波の正体に注目していなかったこともあり、ラストは少し知りたいところ。
ただ、消去法的なメッセージとしてAIというものは人間にはなれない(というよりしてはいけない、という意志すら感じる)、という視点に立つとラストも多少の理解に繋がる(アスカはケンケンと居るけれど)かも。

死者の魂についてはAIの扱いとは一線を画していて、ユイの魂は初号機、即ち碇シンジの魂の中に宿っている。
式波アスカがクローンである(らしい)との見方をすると
人間>クローン>AI
というような不等式が出来上がりそうだ。

◎本作の疑問点
ありすぎて困るのだが、割りとエヴァンゲリオンに関してはそれを自己解釈的に解決していくという作業も一つの楽しみ方であったりするのだと思う。
私は基本的に受け身でその作品を楽しみたいと思っているタイプなので、"感じたことをまとめるのは好きだけど考えるのは別に好きではない"のだが。

まぁ本作の最大の疑問点は渚カヲルであろう。
「渚司令」
とカジから呼ばれるシーン。
あのシーンは全視聴者が頭を抱えたことだろう。
頭を柔らかくする必要があって、渚カヲルというのは概念的な存在である、という認識をした方が良いのかもしれない。
本来碇ゲンドウが居るべきポジションに渚カヲルがいる不審点。

渚カヲルはQで
「何度も見てきた」
というように、世界線をぐるぐると旅しているようなニュアンスの発言を残している。
加えて
「僕は君だ」(だったっけ?)
というように碇シンジの対になる存在(遊戯王で言うところの"もう一人の僕")であるような発言も残している。

しかし、ジョンタイターのように全能的な立ち居振る舞いではなく、Qの終盤では
「どういうことだ?おかしい…」
と、ロンギヌスの槍とカシウスの槍のシーンで想定外のことが起こり頭を悩ませる。
このことから彼が神の代弁者的な存在ではないことが窺える。

個人的には渚カヲルの正体は
碇ゲンドウが心の奥底で思う、シンジへの心の具現化した概念体。
とかがしっくり来る。
ピアノをずっと弾いている点は碇ゲンドウとの一致性を暗示している訳で。
つまり
物理体である碇ゲンドウはシンジから逃避し続ける存在で
概念体である渚カヲルはシンジに近づき続ける存在という訳だ。

すると、今度は渚カヲルが碇シンジに認識し続けられる理由を考える必要があるが、それはフォースインパクトが起こった世界線から舞い降りた、と考えるのが自然であろう。
まどマギを知っている人に言うならば彼は"明美ほむら"のような存在であるということだ。

アディショナルインパクトが起ころうとしていた際、量子によって移動が出来ていたこと、アディショナルインパクトとフォースインパクトのもたらす結果が魂のやりとりであることから、その世界線ではそういったことが可能になると予想される。

渚カヲルという碇ゲンドウの深層概念体は、現実世界でのシンジの幸福を祈り続けていたのだろう。


追記
書き忘れていたことがあった。
最終盤、海辺でシンジの絵がネームになっていくところあるじゃない?
あれって
「一仕事終わったから遊んどくかー」
みたいな印象を受けて笑ってたんだけど
めちゃくちゃ好意的な考察をすると
【作られた人間である自覚性】のメタファーなのかなと思ったりする。

これは創作物の中では暗黙の禁忌(だと思っている)なのだが、この作品はやっぱり"自覚"というのがテーマとしてあると思っていて、キャラクターというものに対しての自覚性を暗喩しているのかなぁなんて。




ではこの辺にして、エヴァと決着をつけようと思う。







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